Special Interview
認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML 理事長山口 育子さん
患者が自分にとって“最良”の治療を、納得して受けるためには、患者が主体的に医療に参加したり、少しの努力や働きかけを行ったりすることも必要なのかもしれません。そこで、がん経験者であり、医療関係者に対する教育活動も行っていらっしゃる、認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML 理事長 山口 育子 さんに、患者さんの側から考える医療コミュニケーション、賢い患者になるためのヒント、医療関係者と良好な関係を築くためのヒント、および理想の協働的意思決定についてうかがいました。
認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML 理事長山口 育子 さん
私は2回がんを経験しています。最初は1990年の9月で、あと2ヵ月で25歳というときに卵巣がんであることがわかりました。当時は患者にがんを告知することはほとんどなく、私にも病名が告げられることはありませんでした(病名を伝えられたのは随分あとのことです)。
私は早い段階から、自分ががんであることを疑っていましたが、私がくわしい説明を求めても、主治医は差しさわりのない病名を並べ、「お腹を開いて卵巣を取り出してみないとわからない」と説明しただけでした。そして、自分の本当の病気について何も知らされないまま検査が始まり、手術予定を待たずに卵巣が破裂したため緊急手術を受けました。手術の翌日、朝目覚めたときに、たくさんの点滴がぶら下がっていたり、お腹の真ん中から太いドレーンが出ていたりと、私がそれまでに見たことのある術後の患者さんとは異なっている状態でした。それに、医師も看護師も、家族も手術の話題に触れないことから隠そうとしていると察し、私は自分ががんであると確信しました。しかし、推測で確認するとさらにガードが高くなると考え、決定的な証拠をつかむまでは疑っているそぶりを見せませんでした。
24歳の私がそのとき考えたのは、「30歳まで生きられないかもしれない。短い人生になるかもしれない」「それでも私の人生なのだから、病状をしっかり把握した上で、治療のこと、その他のことを自分で決めたい」ということでした。そして、そのことを主治医に伝えましたが、私の意思が受け入れられることはなく、本当のことを知ると精神的に打撃を受けると決めつけて、両親にも本当の病名は伝えないように口止めしていたようでした。
そこで私は、自分の病気に関する本当の情報を得るために、医療関係者との会話の最後は、どのようなときも笑顔で終わるような努力をしようと決めました。例えば、検査結果を主治医に確認し、その結果を聞いたときに、笑顔で会話を終えたら、主治医は「伝えてよかった」と感じるだろうと思いました。
このように、「この患者には伝えたほうがよい」と医療関係者が考えるだろうと思う態度で接する努力を積み重ねて、少しずつでもいいから、本当の情報を知りたいと願ったのです。
そのうち、本格的に抗がん剤治療が始まり、2~3週間が経ったころに髪がごっそりと抜け、がんで抗がん剤治療を行っていることが確信的になった段階で、「これまで病状の説明を受けていないことに納得できない」「こんな過酷な治療を何の説明もなく受けたくない」と看護師に訴えました。看護師たちはみな「伝えるべき」と思ったようでしたが、それでも主治医は頑なに告知を拒み続けました。結局、本当の病名とステージを伝えられたのは、別の医師からです。それでやっと私は、自分の病気やその治療について勉強することができるようになったのです。
また、今では信じられないでしょうが、当時、くすりの名前も患者にはわからないようになっていました。看護師にくすりについて尋ねても、何のくすりかは決して教えてはくれませんでした。そのため、くすりの名前は、薬剤シートに書いてある記号から調べました。このように、医療情報が患者には閉ざされ、くすりの名前にたどり着くのもやっとというのが、1990年という年でした。
1990年代の10年間は、情報化社会の進展とともに、病気の告知のあり方が急激に変化した年代でした。例えば、乳がんの治療では、1993、94年ごろは、乳房を温存する手術はほとんど行われておらず、乳房だけでなく筋肉まで切除し、肋骨が浮き出るような、ハルステッド手術が主流でした。しかし、そのような手術を受けたあとの自分の体を見たら、患者は乳がんであることがわかるはずです。そのため、私の記憶では、乳がんからがん告知を行うようになり、その後、他のがんでも病名とステージを積極的に伝えるようになったと思います。そして、1990年代後半になると、病名をはじめとしてすべての状況を患者さんに伝える時代になりました。手術時の全身麻酔による死亡率まで知らされるようになったので、⼾惑う患者さんが多くいたほどです。
一方で、1999年は医療安全元年と呼ばれ、大きな医療事故が立て続けに起きた年です。メディアも医療ミスの報道を過熱させました。そのことで一般社会の医療不信感があおられ、それがピークに達したのが2003、04年ごろです。医療は信用できないという人が増えたため、医療現場ではそれまでのやり方を見直し、患者さんとのコミュニケーションを大事にして、わかりやすい説明を行うようになりました。
こうした変化を経て、現在では、くわしい説明をしない医師に会うほうが難しくなっています。1990年にあのような努力をして自分の情報をやっと得ていた私にとっては、聞きたくないことまで教えてくれる現在の状況は、むしろ羨ましいくらいです。
2011年、右の卵巣にがんが見つかり、私は2度目のがんを経験しました。このときには、医療関係者と病状について率直な会話を交わせるようになっており、20年間にずいぶん変わったものだと身をもって感じたものです。
※記事中にある経験談および感想はインタビュイー個人のものであり、掲載にあたって、その発言・意図を損なうことなく反映しております。
(公開:2021年3月)